銀樹の大河ドラマ随想

2018年「西郷どん」伴走予定。「おんな城主 直虎」(2017)についても平行して書こうかと。

西郷どん 第2回「立派なお侍」 感想

小吉改め西郷吉之助、走る。

第2回:2018年1月14日(日)「立派なお侍」。

 

あらすじ

 薩摩藩の世子:島津斉彬(渡辺謙さん演)との幻の邂逅(?)から6年。

 少年西郷小吉は元服も済ませ吉之助と名を改め、郡方書役助(こおりかた・かきやく・たすけ)という藩職に就いていました。郡方書役助というのは、年貢の徴収に関する郡方というお役所の事務補助のような立場だそうです。ということで、吉之助(鈴木亮平さん演)は、秋口に上役と農村に出向き、米の実り具合などを見て回ります。

 この年(弘化3年=1846年)の薩摩は凶作で、米の実入りも明らかによくありませんでした。

 迫村という名の村に立ち寄った時、吉之助は、借金のかたに売り飛ばされそうになっていた百姓の娘:ふき(柿崎りんかさん演)を助けます。厳しい年貢の取り立てにより困窮している百姓達を、なんとか助けられないものか。その後も吉之助は、色々考えては行動に移してみるのですが、ことごとく失敗。結局のところ、最後にふきは売られていくことになりました。

 このとき西郷吉之助(後の西郷隆盛)はかぞえの18歳(16歳で元服しています)。ドラマでは、お隣の大久保正助少年(後の大久保利通瑛太さん演)が元服後、記録所書役助(きろくじょ・かきやく・たすけ)として出仕することが決まったという場面も描かれ、祝いの宴が西郷家で開かれます。正助どんの年齢はかぞえの15歳。

 正助の就職祝いには、第1回にも登場した島津家一門の赤山靱負(沢村一樹さん演)も顔を見せます。このドラマで赤山は下鍛冶屋町・高麗町郷中の学問の師、という立ち位置にあるようですね。

 彼はなぜかこの宴席に、ひとりの若い娘を連れてきます。それはあの、岩山糸(黒木華さん演)でした。第1回で少年達に混じり、妙円寺詣りで甲冑を着て走り回った子です。赤山靱負は糸を「学問がしたくて赤山家で下働きをしちょっ」と紹介しました。

 男装で駆け回り、共にかすていら・いこ餅などのお菓子をパクついていた頃と違って(そりゃそうだ~、第一演者さんが違う)、髷を結って大人び、楚々とした笑顔を見せてはにかむ糸さんの可愛いいこと。正助はどうも一目惚れをした様子です。

 ところが、糸さんは子どもの頃の印象のせいか、既に吉之助の方に心惹かれているようなのです。が、肝心の吉之助は「どうやったら百姓にもっと楽をさせられるか」で頭がいっぱい。そんなほのかな恋心の行き違い(三角関係…)が、物語の彩りとして添えられています。

 

まずは主人公の挫折体験を、初回に続いて描写

あまりにも真っ直ぐで周囲がハラハラ

 第1回「薩摩のやっせんぼ」で他の郷中の少年に右腕の腱を切られ、剣術を諦めねばならなくなった主人公。落胆し、思い詰め、死をも考えていた彼の前に(偶然)現れた島津斉彬は、

 「侍が重い刀を二本も差して、そっくり返る時代は終わるんだ。かよわき者の声を聞き、民のために尽くせる侍となれ(意訳)」

と諭し、このドラマにおける西郷隆盛の「人生の方向性」を示しました

 

 その言葉を胸に秘め、18歳となった吉之助。第2回ではなんとかそのような生き方をしようと悪戦苦闘するのですが、これが一筋縄ではいきません。

 といっても、別に本人の努力不足という訳ではありません。そもそも幕末のこの時点では、もう薩摩における社会のシステムそのものが、どうにもうまく回らなくなっているんですね。

 非生産階級である武士が、日本の他の地域より多く(4人に1人は武士という説も)、従って百姓に課せられる年貢はことのほか重税(八公二民だったそうです)。先々代の殿様=重豪公が500万両という借金をこしらえたため、藩の財源はカツカツという状態でした。

 そのため当代藩主の斉興(鹿賀丈史さん演)は常に経済状態を第一に警戒しています。ちなみに異国との防衛問題に目を向け軍事費を増やしたい嫡男:斉彬とは全くそりが合いません。当代家老の調所広郷(笑佐衛門、竜雷太さん演)は敏腕で、この借金返済のめどを立てましたが、やはり藩の財政には引き続き目を厳しく光らせます。一にも二にもまずは財源確保、なのです。そのためであれば、例えば下っ端役人の間で不正や賄賂が横行しようが多少のことには目をつぶるというスタンスです。

 吉之助は、不正がなくなれば民百姓も潤うはずと信じて、不正を行う上司を諫めたり、年貢の徴収法を変えようとしたり悪戦苦闘しますが、どれも空回り。

 かえって勤めを始めたばかりの若い大久保正助に「今、下手に動いたら薩摩の財政はたちどころに崩れもす」と説かれてしまうのでした。他の郷中の仲間たちは、それ以上に引き気味に見ています。家族、特に父の吉兵衛(風間杜夫さん演)とは、「もっと弟妹のことを考えろ」とお説教される→親子喧嘩がルーティン化している模様。

 

ということで、西郷どんはまだまだ、四方八方に頭をぶつける「挫折体験」真っ最中のようです。

 

演技は素晴らしいけど…中身がややスカスカ

43分ってこんなに短かったっけ?

  まず感じたことは「初回に比べて短かった(体感)」。

 終わった時にもう43分経ってしまったか、と少しびっくりしました。多分それは夢中になっていたから、とかではなく、なんというか見終わってまだ余力があったからなんですね。で、それは何故かというと、ひとつには新しく受け取れた内容(展開という意味で…)が、少なかったからだと思います。

  子役編で展開された、①郷中のワチャワチャ感、②西郷どんのハートが温かくておおらかだけど少しピントのずれてるっぷり、③西郷家の窮乏、④西郷家と大久保家の親しさ、⑤島津一家の不協和音、⑥薩摩の財政危機と斉彬の対外関係に関する危機感、⑦西郷父子の噛み合わなさ、などがまた繰り返し描写され、それだけでわりと尺を取っていたような気がします。

 でもまあ、大河ドラマの子役時代は見ない、本役になってから見る、という視聴者も一定数いるかと思うので、それはそれで仕方ないのかも。

 

ふきちゃんは健気で可愛かったけど、結末はなんとなく予想がついた

 もうひとつは、見終わってからホント何故だったんだろうと色々考えたのですが、結論としては「ストーリーラインがあまりドラマチックではなかった」せいだろうという考えに至りました。で、今、これは痛いな…と感じてます。けっこう重大な理由ですよね。

 もう少し判りやすく説明すると、つまり、以下のようなことです。

 第2回の吉之助は「このままでは売られてしまう百姓の娘ふきを、なんとか助けてあげたい」という動機で行動を始めるわけなんですが、その行動がどれも、画面のこちらから見ているに、明らかにとても結果に結びつきそうにない。なので「これはどうも助けてあげられそうにないよね」と、途中からうすうす察せられてしまう。

 なので、主人公の空回りとそれでも一生懸命な様子に同情はできるんですが、本気で物語に入り込むことができませんでした。

 ふきちゃんは可愛く切なげな魅力があり、演じる柿原りんかさんも薩摩弁も演技も上手で、売られていくのを黙って見ているのは、確かにしのびないんですけど。

 そしてまた、他の役者さんたちも、とにかく額に汗して走り回る主演の鈴木亮平さんを始め、熱演だったり間も良いし、演り過ぎもなく、総じて好演技ばかり。なので、パートパートはそれなりに楽しめるんですが、見終わると「アレ?今見たものは結局何だった…?」な感じでした。残念。

 いや、はっきり言ってすごく勿体ないよ!(個人の感想です、念のため。)

 

年貢の決め方が定免法でも検見法でも、借金返済に即効性はない

 そもそも、ふきという少女が借金のかたに売られるのは、一家が負担する毎年の年貢が重くて納められず、そのための借金を親が重ねてしまったからです。つまり、今ある借金をなんとかしないと、どうにもならない。

 が、なぜか吉之助は「年貢は毎年一定、という定免法(じょうめんほう)が適用されているのがおかしい。今年は不作なので、それでは年貢が重過ぎになってしまう」と考え、年貢の徴収にあたり、毎年の獲れ高に応じて増減する検見法(けみほう)に変えたい!と考えます。そのために、身分が低いため本来は面会出来ない相手、家老の調所広郷に直談判までします。

 (史実に西郷どんが別件ですが調所に直訴した、という逸話は残っているそうです。)

 いや、でも、それで今後はもしかしたら楽になるかもしれないけど、今ある借金はまず減らないよ?対策になってなくない?

 調所殿は「そこまで言うなら実際にやってみろ」と(寛大にも)折れ、我らが主人公は意気揚々と、迫村へ検見取りのための坪刈り(推定収穫量調査)に向かいます。ところが、百姓達も定免法対策として、届け出ていない隠し田を作っていました。吉之助はその田を発見してしまい、平六(ふきの父、ドランクドラゴン鈴木拓さん演)ら迫村の百姓達は、「納めるべき年貢がかえって増えてしまうので検見取りはご勘弁を」と彼に泣きつくのでした。意気込んでいた吉之助、呆然悄然。

 しかし、隠し田。ああ、既視感…。

 ここでtwitterはひとしきり盛り上がりました(余談ですが)。昨年の「おんな城主 直虎」でも、第7回「検地がやってきた」で、隠し田(隠し里)が役人に見つかってしまうというハプニングがあったんですね。今回のこのエピソードは、それを意識した大河ドラマファンへのサービスの一種と取っていいのかなぁ。

 とはいえ、検見法でも定免法でも、絶対に年貢は納めなければならないわけで(あたりまえ)、娘を売るほどにかさんでいる借金を返せるほど、お金が残るわけがありません。

 おまけにもう少し細かいことを言わせて貰えば、隠し田を発見する以前の場面で、既に平六は今年の年貢を納めています。なのにその後、坪刈りをする意味ってそもそも、何なんだろう…。

 ていうか、なんで年貢を納めた後も未収穫の稲があるの?隠し田以外にも?

 

 更に吉之助はその後「こいでは平六どんもふきどんも浮かばれん、そいでも曲がったこつは見逃すわけにはいかん…」と悩みます。が、吉之助さぁ、悩みどころはそこじゃないのでは。というか、吉之助にしてみれば武士(まがりなりにも為政者側)として、そこが悩みどころなのは理解出来ますが、ストーリー展開としてはそこで悩まれては「ちょっと待ってこれじゃ話が迷走してる」としか、言いようがないと思うんですよ。

 西郷どん、あなたは可哀想な娘を助けたいのか、複雑になってしまってる藩政(農政)の状況を改善したいのか、優先順位はどっちなんです?そこがあやふやだと、観ている方としてはどこに共感してよいものやら、中途半端な気分になってしまうのですよ。

鈴木亮平さんのせいじゃありません。脚本・設定ですよ変なのは。。)

 

やっぱり”糸どん”の扱いが気になります

実際の年齢を無視したキャラ設定が今回裏目に出ていた

 もうひとつ「これはまずいんじゃないかな」と感じたのは、岩山糸さんの扱いでした。少なくとも今回は、という条件つきではありますが(総合的な評価にはまだ早過ぎるでしょう)。特に問題を感じたのは実際の年齢より上に設定してあるため、劇中での年齢が不詳になってしまったことです。

(実際は、糸夫人は西郷隆盛より15歳年下のため、この時点ではまだ満2歳ぐらい。)

 

 実はドラマ内でのふきの身の振り方につき、吉之助もそれなりに気にはしていて「糸どんの家で下働きに雇ってもらう」という案を提示していました。糸の方は「うちも貧乏じゃっどん、父に頼んでみもす」という返事で、ふきは希望を持ちますが…。

 後になって糸は申し訳なげに「やはり家に人を雇う余裕はないと言われた」とふきの家に断りに来るのです。

 この場面に関し、私はとあるレビューで「子どもにあの梯子外しはきついだろう」と批判されたのを見ました。でも。これ…。

 多分、多分ですが、糸の年齢設定もおそらくかぞえの13~14か、いってせいぜい15くらいの少女だと思うんですよね。なぜかというと、赤山家に(嫁入り前の)下働きの奉公に出ている+男の酒席に靱負が伴う場面があった(一人前の女扱いされてないらしい)、ということで、まだ大人ではないのだろうと想像できるからです。

 でも、演じる黒木華さんには初々しさとほんのりとした色気が同居している佇まいの魅力があります。そこが前半の正助に一目惚れされるところなどでは、非常に良い効果を上げているのですが、いかんせん、あのシリアスで重要な場面でも大人びたイメージを拭い去ることができず、本来の長所が裏目に出てしまいました。吉之助と同じ18歳くらであれば、売られていくはずの子をぬか喜びさせてはいけない、という判断もできそうですからね。

 もちろん、黒木さんも実年齢よりずっと若く、幼さを感じさせる演技をされてますので、俳優さんのせいでは全くありません。何歳だか見当もつかないという、設定自体が無理筋過ぎるのだと思います。

 

 この「糸はたぶん14くらい」という目線で見れば、彼女が無邪気に吉之助の後をついて歩き、吉之助も悪気がないことなどにもおそらく納得がいくのではと思いうのです。

 ですが、例えば実年齢どおりの設定である大久保正助のことを「あれは15歳だ」と自信を持って見ることができるのと違い、何も予備知識がないまま目に映る印象で判断せざるを得ないため、ちょっと違和感が残る回になってしまいました。

 そういえば初回で糸を演じた渡邉このみさんも11歳にしては少し大人っぽく、背丈なども出演した子役の中でなら小柄ではなかったですもんね。どうしても糸が吉之助の年齢に近いように見えてしまうのです。

 

糸どんパート隠し田パートなしでビターに作った方が良かったと思うよ

 ここで少し、私の個人的な好みと素人考えでの妄想になりますが、もうちょっとこんなだった方が良いんじゃない?と思ったことを書いてみますね。

 

 今回、しつこいようですが岩山糸さんを演じる黒木華さんが本当に可愛くて、見てて癒やしだし素敵だし魅力です。でもドラマ的には、やはり彼女の出番をなしにして、もっと別の膨らまし方をした方が良かったのではと思っています。スイーツを入れたことでドラマの本筋が弱くなってしまっていると感じました。なんなら糸どんのかわりに正助どんが絡んで、2人の絆をもっと描いても良かったかも。

 借金のかたにふきを連れて行こうとする女衒ももっとあっさりした存在でよく、乱暴な感じじゃない方がいいと思ったんですよね。なにしろ彼ら、最初の登場場面では吉之助が帯刀の武士、しかも藩の役人であるのにもかかわらず、怯まず暴力で応対しようとしてましたからね。二本差し(=武士が重い刀を二本も差している)の意味が…。明らかに違和感がありました。

 なのでそういう、歴史ドラマではなくどっかの時代劇でよく見かけるような描写はなくした方がよい。

 代わりにふきの親夫婦がもう少し擦れた感じで、表面的には積極的にふきを売ろうとしていた方が良かったのでは。

(親の方は苦労を重ねてやけっぱちになり、偽悪的な態度を取っている感じです)。

 行きたくないと抵抗するふきと親との葛藤を見て吉之助が心を動かされ、何とかしてやろうと足掻くうちに不正が横行する年貢取り立ての裏側をも知り、動揺する…そしてふきも結局売られる…という展開だったらもっとスッキリして良かったのでは、と、私は勝手に想像してしまいました。

 そのあたりの心理描写に時間を割くので、隠し田パートもなし。今の感じだと前述した通り、話の芯の部分(ふきを助けたい吉之助はそのミッションを成功させられるのか?)にはあまり関係ないので、検見取りとか定免法とか、要するに大河ドラマなので歴史パート出しました、的な印象しかないのですね。だったらいっそ無い方が良いと思います。

 調所広郷の出番はあった方が良いので、彼とは出会っても良いのですが。

(まあこれは全て妄想というかたわ言です。そう受け取ってね。)

 

 

それでも次回以降に期待します

 と言う訳で、第2回の感想はまた色々と辛口になりました…が、まだ疑問に思っていることは少し残っています。ただ、それはまたおいおい、必要であれば書こうと思います。まだ第2回であまり突っ込みすぎるのも気が早過ぎるだろうと思いますので。

 まとめてみますと、言いたいことは大きく分けて2つ、①ストーリー展開の芯(及び主人公の心の力点)がブレブレだったよ、と、②糸どんがこの時点で吉之助の人生に関わっていることの効果がやや疑問、この2点です。

 ともあれまだ2回目ですので、あまり点を辛くしないでいようと思います。次回以降に期待。

 

おまけ:予感したこと

 最後に、ここまで2回観て予感したことをひとつ。

 この「西郷どん」、西郷さんが女性からも様々な影響を受けてきたのだーという視点を重視して、物語が語られていくのかもしれません。

 オープニングでのキャスト並び後半部は、父西郷吉兵衛より母西郷満佐の方が後で、島津斉彬の直前ですし。初回の糸ちゃん、今回のふきちゃんの存在感も、そういう見方をすると納得がいくような気がします。

 

おんな城主 直虎 第1回「井伊谷の少女」 感想

幼なじみと竜宮小僧と首桶と。

第1回:2017年1月8日(日)「井伊谷の少女」。初回55分拡大版。

あらすじ

 アヴァンでは舞台が戦国の西遠江・国衆井伊氏の治める井伊谷(いいのや)であることを紹介。物語開始当初には遠江の東隣・駿河の大名、今川家が勢力を拡大し、井伊谷を含む遠江全域を武力により支配下に組み入れたことも説明。

 井伊家当主井伊直盛(杉本哲太さん演)の娘:とわ(後の直虎、新井美羽さん演)は活発で、日々袴を履いて男の子達と駆け回っている。直盛の叔父:井伊直満(宇梶剛士さん演)のひとり息子:亀之丞(後の直親、藤本哉汰くん演)、井伊家家老:小野政直(吹越満さん演)の長男:鶴丸(後の政次、小林颯くん演)とは殊に仲が良く、井伊家菩提寺龍潭寺(りょうたんじ)で共に手習いも受ける仲。

 この時、直盛の子は女子のとわのみで、跡継ぎの男子がなかった。そのため直盛にとっては従弟にあたる亀之丞が将来とわの婿に入り、それをもって井伊の家督を継ぐと定められる。ところがその裏で直満は、井伊の主家にあたる今川家から離反し、今川と敵対している大名:相模の北条家と結ばんと密書をしたためていたのだった。だが、その文書は今川寄りの立場を取る家老小野政直の手に落ち、計画は今川に漏らされる。

 ほどなく、直満は駿府から呼び出しを受け弑されてしまう。のみならず亀之丞の首も差し出すよう命令(下知)が下るが、井伊の一門は、まだ幼い彼を夜陰に乗じ密かに逃がす。

 

美しい自然、駆け回る子ども達。これはジブリの世界?

  初回を観たtwitterのTLが「ジブリだ…」で埋まった気がします。実際、サブタイトル「井伊谷の少女」は「風の谷のナウシカ」から取られているようです(※放送年=2017年末の公式twitterでされたサブタイトルの由来紹介を参照しました)。

 主人公のおとわは男勝りで勝ち気で、鬼ごっこで追い詰められても、捕まるくらいなら!と滝に飛び込んでしまうような元気な子です。後で、着衣で川に入ったことを乳母に咎められた時もあっけらかんと「捕まらなかったー」と言い返し、平気のへいざで館へ駆け戻ります。走りながら大声で「お腹空いたー」と叫びながら。その途中、馬の野駆けに出ようとした父の直盛を見つければ「われも連れて行って下さい!」とせがみ、軽やかに馬を走らせます。「風邪をひきます」と止める乳母のたけ(梅沢昌代さん演)に「風邪などひいたことはなーい」と背中で言い残して。

 この子役期は計4回=1月いっぱい続き、放映当時は賛否両論…というか、どちらかといえば否定的な意見が多かったような気がします。主人公のおとわは活発ですが知恵の回る子ではなく、ピンチもがむしゃらに気力のみで切り抜けようとするため、観ている方がハラハラさせられてしまうのでした。しかもその「ピンチ」というのが子どもの世界の話ではなく、戦国のどシリアスな展開をかろうじて運良くかわす、という形だったので…。

 前年(2016年)の大河「真田丸」が、腹の据わった武将達が戦国を舞台に本気の駈け引きを繰り広げる、というものだったせいもあり、この井伊家の物語が始まったときは、実は私も「これで本当に大丈夫なの?」と首を傾げながら観ていました。

 (後にこの時の懸念はまったく杞憂だったとわかるのですが、それはかなり後のお話)

 

紅一点のおとわの両手に、花のような男子2人

 おとわの2人の幼馴染み、亀之丞と鶴丸はそれぞれ見た目も美しく、亀之丞は気が優しく横笛が得意、鶴丸は賢くて、おとわに負けず劣らず勝ち気な少年。2人ともおとわのようによく言えば真っ直ぐ・やや辛口に評価すれば単純、という訳ではなくて、お互いにコンプレックスもありそれ故の陰の部分も見せています。この2人の役の解釈や表現は素晴らしくて見応えありました。

 鶴丸は、父小野政直が井伊家中では異端視される存在な(反今川の風潮が強い家中でひとり今川寄りの立場を取っている)ため、本人も周囲の大人達によく思われていません。そのことを子どもながら既に気づいており、難しい立場に苦しんでいます。

 亀之丞は身体が弱く、笛以外のことに自信を持っていません。幼馴染みのうち鶴丸は頭の回転が速く物覚えも良く、賢いタイプ。もうひとりのおとわは、とにかく元気で丈夫…なだけでなく、馬を楽々乗りこなしたりとスポーツ万能タイプなのですね。ついつい2人と自分を比べてしまい「何の取り柄もない」と落ち込んでしまうのでした。

 2人とも、画面のこちら側から見たらじゅうぶん物わかりがよく頭の良い子で、人の気持ちも思いやれるし、良い子達なんですけどねぇ。おとわ、両手に花状態だよ。

 

龍潭寺南渓和尚と猫、そして竜宮小僧伝説

 そんな幼馴染み3人組、特に井伊家のひとり娘であるおとわを陰に日向に見守っている存在が、菩提寺龍潭寺の住職である南渓和尚(小林薫さん演)でした。

 和尚は当主直盛の祖父(おとわの曾祖父):井伊直平の子息であり、亀之丞の父直満の兄弟にあたります。直盛も出家したこの叔父を頼りにしているらしく、内密の相談事などしているようですが、当の和尚は昼間からお酒を飲んだり(しかもお供え物)、どこへ行くにも猫を懐に入れて歩いたりと、飄々として掴み所のない風情。

 (またこの茶虎の猫がおとなしくてえもいわれぬ愛嬌がありとても可愛いく、後に和尚の法名にちなんでにゃんけいさんという呼び名が定着しました。)

 とはいえ禅宗(龍潭寺臨済禅の寺)の僧侶らしく、この南渓和尚は時折、子ども達に謎かけもします。「(井伊の)ご初代様が井戸の中に捨てられていたというが、なぜ(井戸の中で)生きておられたのじゃと思う。」等。また、おとわを見守っていることを当人に気づかれないよう「それは竜宮小僧のしわざかもしれぬ」と煙に巻いたり。ただの酒飲みか、本当は鋭い大物なのか、どちらかわからない謎の人物像です。

 

ところでこの竜宮小僧というのは地元の伝説で、知らぬ間に田に苗を植えておいてくれたり、洗濯物を取り込んでおいてくれたりする、人が困っていることを知らぬ間に手伝ってくれる謎の存在(ドラマの公式ホームページより)なのですが…。

 

 亀之丞がこの第1話後半で父を失ったあと「自分は身体も弱く取り柄もない、井伊の家に生まれただけのできそこない」と嘆いた時、おとわは(いつか妻となる)自分が亀の代わりに村々を回り、いざとなったら戦にも行く!だからそんな(悲しい)ことを言うな!と励まします。その言葉に心打たれた亀之丞が「おとわは俺の竜宮小僧になってくれるのか」と返し、おとわは力強く頷くのです。

 このときが実は、この物語におけるおとわ=直虎のアイデンティティーが確立した瞬間でした。

(この伝説絡みの展開が、これはジブリだね、と言われた所以のひとつですね)

 

戦国期、人の命はあっけなく散る

首桶となって帰ってきた亀之丞の父

 さて、ジブリ風と形容してしまうと牧歌的な感じですが、「おんな城主 直虎」は基本はビターな物語です。それはこの始まりの第1話から徹底しています。

 物語後半、3人の幼馴染みたちは竜宮小僧探しをして山中で遊んでいる時に、偶然、殺された山伏の死体に遭遇します。驚いて大人たちー井伊直盛南渓和尚ーを呼びますが、2人は死体に不審な点があることに気づくと、子どもらを死体の側に放置し、急ぎ館に戻ってしまうのです。こんなこと、現代ならまずあり得ないですよね。

 3人も後から井伊の館の方へと帰りますが、そこで待っていたのは、駿府に呼び出され謀反を暴かれた、井伊直満の首桶でした。駿府の主、今川義元の命によって成敗されてしまったのです。直盛から悲痛に、しかし率直にその事実を告げられた亀之丞は、魂の底から絞り出されたような声で「父上、父上、父上-!」と首桶に呼びかけます。一方、鶴丸はこの残酷な顛末には父政直が関係していると気づき、青ざめてその場を走り去るのでした。

 

ここから先は運です

 しかし井伊谷の人々には、ただこの成り行きを嘆き悲しんでいる暇などありません。今川家は、直満の嫡子である亀之丞の首も井伊家に要求していました。謀反に繋がる禍根は断っておきたいのです。

 井伊の館には夜分、川名の里から隠居の直平(前田吟さん演)が到着し「これは小野の仕業か、まだ9つの亀之丞の首もお前は今川に渡すのか」と、孫である当主直盛に刃を向けつつ詰め寄ります。直盛は直満の臣・藤七郎を供に付け、亀之丞を逃すことにしました。

 その話をおとわに打ち明けたのは、母の千賀(財前直見さん演)です。娘を気遣う母の想いをにじませながらも、謀反人と見なされた人の子を逃がすリスクを真正面から説きました。とわに「亀之丞はどうなるのか」と問われた時も真っ直ぐに「ここから先は、(生き延びられるかどうかは)運です」と誤魔化さずに答えます。この千賀という女性はこの後も亡くなる時まで戦国の女性らしく毅然としながらも、優しく、心遣い細やかで、素敵な人でした。

 

ドラマとしては骨太だが大河としては未知数だった初回

 美しい自然をロケ(岩手県で行われた)で描写し、子役達も芸達者を見せ、今川家と井伊家の関係、今川からつけられた家臣(奥方:千賀の実家)新野家と井伊家の関係、井伊家と家老である小野家の関係などをさりげなく紹介し、文武の教育所でありアジールである菩提寺龍潭寺の存在も紹介。密書や諜報活動、謀反、斬首など戦国らしさも初回から存分に活写。盛りだくさんで、骨太であることを見せつけられた初回でした。

 とはいえ、ドラマ中で命の危険に晒される亀之丞は歴史上、この時は生き延びて成人し、井伊直親(三浦春馬さん演)となることが視聴者には予め知らされています。そういった意味では緊張感MAXとはいきませんでした。これは、歴史を題材にした大河ドラマの宿命というか、制作側から見れば不利な点だと思います。

 果たして、今後、歴史ドラマとして面白い展開となるのか?については、この時点では視聴者にとって未知数だったと言えるでしょう。前作「真田丸」が少し後とはいえ同じ戦国期に題材を取った傑作だったため、どうしても比較対象になってしまうというハンディもありました。

 

 先が見えない。

 

 ひとつ、言えることは視聴者も、登場人物たちも、この時から同じ地平に立っていたな、ということです。

わたしたちは、揃って先が見えない場所にいた。

 

 でも、この「視聴者も登場人物たちも同じ立ち位置」という希有なポジションを、思えば、この「おんな城主 直虎」は最後まで保ち続けたのでした。そのことは、このドラマを観る者を、結果として深くドラマの中に入り込ませることになりました。

 「おんな城主 直虎」は、今までに誰も経験したことのないような「体験型の大河ドラマ」だったと思います。この物語はその点で唯一無二でした。今後も似たような作品が果たして出るかどうか…。

 1年後に、追想としてこうしてブログを書きたいという思いに人を駆り立てるドラマが、他にあるでしょうか?ー今後も、時々このことを思い出しながら、綴っていきたいと思います。

 

 

西郷どん 第1回「薩摩のやっせんぼ」 感想

西郷どん始まる。 

第1回:2018年1月7日(日)「薩摩のやっせんぼ」。初回60分(紀行を含め)拡大版。

あらすじ

 現代の上野公園・西郷隆盛銅像の画面から、1898年の銅像除幕式に(ここまでアヴァン)。オープニングをはさんで、更に天保11年(1840年)、西郷隆盛の子ども時代(幼名=小吉)まで遡り、いよいよ物語が始まります。

 小吉が下鍛冶屋町郷中の仲間達と過ごす日常風景の描写から始まり、未来の主君・島津斉彬(この当時は世子)との運命の出会い、また未来の妻・岩山糸との運命の出会い、そして、右肩をケンカで切られ、それにより右腕が生涯使いものにならなくなってしまう…という、最初の試練が描かれました。

 なお、主役の鈴木亮平さんはオープニングテーマにしか登場せず、第1話で主人公:西郷小吉を演じるのは一貫して子役の渡邉蒼さんです。

 

印象・みどころ・その他

 まず映像が美しく、大変好みでした。ロケでの自然描写も良く、セットでの場面も陰影のつけ方などが「薩摩という地域の南国らしさ」を解りやすく演出していると思います。ドラマの舞台になる場所を非常にわかりやすく視聴者に提示しているし、空気感まで伝わってきます。コンテとかカット割りと言うんでしょうか、撮り方のセンスも素敵だと思いました。観ていて飽きない画面展開です。

 

 次に、登場人物の使う「薩摩弁」のインパクトが大! これはtwitterでも散々呟かれていました。薩摩弁にうとい人は字幕を表示して見るべきでしょうね。ただ字幕も薩摩弁そのままなので「それでも判らないよ!」という方もいるとは思いますが、私自身は、そこはこれから慣れていけばいいや、という気持ちでいます。

 映像展開がわかりやすい(演技もメリハリが出るよう演じられています)ので、よっぽど聴覚優位でセリフに頼ってしかストーリーを追えない、という方以外は、字幕onでかなり楽に鑑賞できるようになると思いますよ~。

 

 演技も緻密、かつ解りやすく、全体の粒がよく揃っていると感じました。役者さん方が好演されてますし、演出さんのまとめ方が良いなと。一本芯が通ってる感じで。加えてストーリーも非常に良く纏まってるなぁという印象です。「人物紹介」「舞台紹介」「時代背景紹介」「今後の展望予感」がきちんと提示され、長期連続ドラマの初回という視点で考えれば、申し分ない感じがしました。

 

薩摩と子どもの世界とケンワタナベ。

 更に良かった点を少し詳細に列記するとすれば、

・「ややクラシックだがリアリティ溢れる子どもの世界」描写、

・「少々ファンタジックだけどスケール感が大きく説得力ある、渡辺謙さん演じる薩摩藩世子:島津斉彬とその周囲」描写、

・それを支える大人脇役陣の過不足ない好演、

・鹿児島ローカル色を全面に出した表現による、土地(=ある地方)の持つ圧倒的なリアリティのパワフルさ。

ということになるでしょうか。薩摩の人=西郷どん、っていうアピール感ハンパなかった。あと主人公にとって生涯の師兼憧れの人:島津斉彬(ケンワタナベ)の存在感。

 

子役の演技マジすごいよ

 まず第1回で主役を演じた渡邉蒼くんについて。

 感情表現がものすごく胸に迫りました。大人顔負け!っていうより、子どもだからこそ出るであろうストレートな喜怒哀楽、逡巡、懊悩が内側から溢れ出てくる感じ。これはスケールの大きい役者さんになりそうだなあと期待が膨らみます。

 特に、それまで剣術に才能を示し周囲から期待もされていた小吉が、右腕の負傷によりもう剣は振るえぬと診断され、絶望のあまりひとり泣く場面は本当にすごかったなと。しばらくのあいだ画面に彼ひとり映るんですけど、本当に目が釘付けになる。

 薩摩では武士は武芸第一だよ、っていう状況説明がそれまでにきちんとなされていたおかげもありますが、将来の出世の道が断たれたどころか、今現在の郷中(ごうちゅう=近所の武士仲間でムラのようなもの)においても、ただの役立たずに立場が転落してしまう。小吉は聡い子なのでそれをあっという間に悟るんですね。自分を大事にしてくれているお母さん(西郷満佐=松坂慶子さん演)も、小吉のために嘆き悲しむ。その悲嘆をもまた自分の身に背負ってしまう、それが小吉という子なんだということ。その倍加された苦しみ。全て伝わってきました。

 そして小吉だけでなく、他の子役さん達の演技も生き生きとして見事です。

 このことに関しては、脚本も秀逸だなぁと素直に感心しました。初回視聴時は小吉の演技にすっかり目を奪われてしまいましたが、見返してみると、ちゃんと、セリフで各々の性格が出るような描写がされてるんですよね。

 例えば大久保正蔵(後の大久保利通、石川樹くん演)は、機転が利いて場の雰囲気を素早く悟る、とか、大山格之助(後の大山綱義、犬養直紀くん演)は直情径行型のジャイアン風味、などなど。

 でも、そのあたりを子役達が更に表情や仕草でもきちんと見せていて、本当に良かった。個々の役者さんも演出家さんも素晴らしいなと。

 このあたりは思うに、子ども達を出来る限り子ども達の世界(すなわち郷中仲間)の中で描写していて、大人との接点がピンポイントだったのも成功のカギだったんじゃないかなと私は感じています。大人の演技と子どもの演技の見せ方・合わせ方、その辺のバランスが絶妙だったと思うのです。

 

世界のケンワタナベはマンガ・アニメ的に演出される

 それからtwitter上でも大絶賛の嵐だった、薩摩藩世子:島津斉彬役の渡辺謙さん。

 ハリウッド(「ラストサムライ」等)やブロードウェイ(「王様と私」)でも主演経験がある、って、こういうことなんや!、という圧倒的な存在感でした。セリフ回し役作り云々以前に、もの凄い王者オーラ。しかも良い意味で男っぽくて格好良い。気品とワイルドさがこのレベルで同居する方って、今他にちょっと思い浮かばないです、ハイ。

 少しだけ、大河ドラマ前作「おんな城主 直虎」で織田信長を演じた市川海老蔵さんと似た立ち位置かな、という感もあったのですが。直虎の背景は群雄割拠の戦国時代だったのでアレですが、幕末であの斉彬様だと周囲より頭ひとつもふたつも抜きん出るの、凄く分かる、分かるよ!というスケール感でした。眼福だ~。

 

 ここでの個人的注目(萌え)ポイントは「いやー、謙さんの出るところはめっちゃ2次元風味だったねー。でもそれが良かったねー。」ということ。

 あのアレです、紙媒体で超絶人気のマンガ(例:「ワンピース」とか「ジョジョの奇妙な冒険」とか)がアニメ化されて、あー良いね良いね、良い感じに動いてる!っていうのを見てる感がありました。これは2.5次元じゃんという雰囲気が、コスチューム(本来は他の人と同じように衣装と表現すべきなんですが、謙さんだとついコスチュームと言いたくなる)や、画面構成&カメラアングルからひしひしと伝わってきます。

 小吉と斉彬の最初の邂逅ー、小吉ら下鍛冶屋町郷中・高麗町郷中合同窃盗団(?)が、磯の御殿(薩摩藩主別邸)からのお茶菓子くすねを失敗し逃走する様子と、同時に和洋折衷な服装の斉彬と謎の坊主技術者集団が大筒(おおづつ)の発射実験をしていて、それもあえなく失敗に至る様子、それが交互に画面に映されます。顔中真っ黒な斉彬(ゴーグル着用)と、全身ホコリだらけでやっぱり顔も真っ黒になった小吉が出会い、ここも交互に表情が映されるんです。このあたりが特に、一番アニメっぽかったなと感じました。でもそれが不思議なワクワク感を醸し出していて、秀逸だとも思います。この場面、子どもも絶対楽しめるよ!郷中の子どもたちが、斉彬の格好があまりに自分の知ってる大人のいでたちと違い過ぎるせいで、すっかり彼を天狗と思い込むところも、ああ分かる分かる、っていう感じで説得力あるしね!

 (磯の御殿に皆で忍び込もうとする前に「そのあたりには天狗がいるらしい」という噂が紹介されてます。これ実際、本当に伝説があったのだそう。)

 ちょっと話がケンワタナベから逸れますが、その前段階の、磯の御殿襲撃(お菓子目当てw)も、おそらく子ども達の動きを早回しして、アニメ風味に見せてますよね。あんなに早く動いたり走ったりできるわけない。そのコミカルさもマンガチックな感じで楽しかったです。子どもとはいえ仮にも武士の子が、藩主様の御殿からお菓子を盗もうとしていいのか…という逡巡を、この視覚的効果で紛らわされてる感もありましたが…。

 また謙さんに話を戻すと、その後の登場場面、磯の御殿での島津一家顔合わせ(藩主:斉興、お国御前:お由羅の方、斉彬弟:久光)も少しコミカルさが強調されて、どこかマンガ(というか戯画化?)っぽかったような。

 2度目に小吉と出会う妙円寺詣りの場面はそれほどでもなかったですが、3度目の出会い場面も、ロングショットの撮り方にどこかアニメのような雰囲気があったような気がします。3度目の出会いのところは馬に乗った斉彬の動き(というか馬の動かし方・操り方でしょうか)が巧みで、その辺も俳優さんの演技を観ているというより、まるで絵の上手いアニメーションを観てるよう(褒めてます)だったと思うのです。不思議な体験でしたね。

 

じんわりと感じる薩摩の異国感

  公式サイトにも記事等出ていたような気がしますが、スタッフさんが撮影や美術、メイクにもかなりこだわられたようで。「この作品(序盤)は、薩摩=鹿児島が舞台ですよ」、というのが細部から立ち上るように感じられました。

 光と影、出演者の汗ばみ、音楽、そして薩摩弁。で、改めて感じたのですが、いやー土地の持つパワー・存在感ってすごいんだなと。自分自身は東京で生まれ、東京及び南関東諸県で過ごし、ルーツも東北など日本の北部なので、ものすごい”異国感”を感じたのです。ただそれは、真っ正面から突きつけられるような違和感ではなくて、作品にゆったりと流れている低音の響きのような感じで、パワフルだけれども圧倒され過ぎることなく、受け止めることができました。楽しかったです。

 多分これ、鹿児島県の方や出身の方には(もちろん)異国感ではなくて、懐かしさとかふるさと感がわーっと来るんじゃないかな?ので、このあたりは地元の方は地元の方的に楽しめる要素なんじゃないでしょうか。そういうことって、大河ドラマ的にはとても大事ですよね。と、私は思っています。

 

女の敵は女…じゃないと良いなと願いつつ

 さて、「西郷どん」初回放送、ここまでほぼ絶賛で約4,000文字も使いました(笑)が、大河ドラマとして見るに、いち大河ドラマファン目線では、不安要素もいくつか感じなかった訳ではなく。第2回以降がどうなるか、ドキドキ半分、期待半分という感じです。それは…。

 

幕末薩摩の男尊女卑。どう描かれるのか…

気になるところの第一。

それはドラマのヒロイン枠とされる西郷隆盛の3番目の妻、糸の立ち位置です。

(西郷糸=旧姓:岩山糸、本役:黒木華さん、子役:渡邉このみさん)

  

 第1回では幕末薩摩国では男尊女卑が日常具体的に行われている、そういう様子がさりげなく描かれていました。西郷家の夕餉シーンでは、祖父の龍右衛門、父の吉兵衛、小吉と弟の吉二郎が共に膳を囲みますが、祖母や母そして妹達はその時、手仕事をしています。女の食事は男達が済んだ後なのです。

  そんなストーリーの中に登場するヒロインの少女時代=糸ちゃんは、小吉の属する下鍛冶屋町郷中と川をはさんだ向こう側の高麗町郷中の少年達が、川で遊び半分・喧嘩半分で戯れているところを橋の上から羨ましげに眺めています。2つの郷中の子らは下士の身分で身なりも粗末ですが、糸ちゃんは小綺麗な薄赤の着物に身を包んでいます(赤い衣料染料は当時高価だったため、薄い赤でも赤系の着物は経済的余裕の印)。

 そしてある日、男装して彼らの前に現れ、磯の御殿襲撃(お菓子窃盗目的)に加わるのです。また後に行われた「妙円寺詣り」という男児の行事=先祖伝来の甲冑に身をかため、関ヶ原の合戦に参加した島津義弘公の墓所に遠足する行事、郷中単位で順位を競う=にも、なぜか下鍛冶屋町郷中の一員として参加し、なんと全体の一着を勝ち取ってしまいます。しかし、そこで他の郷中(おそらく彼女が本当に住んでいる場所のグループ)に属する少年に、正体を見破られてしまうのです。そのため、「女子が混じっとるぞ!」と、島津義弘公の墓前で子ども達が大騒ぎするという展開になってしまいました。

 そしていくつかやり取りが交わされた後、糸ちゃんは小吉に向かってこう叫び、走り去るのです。「男にないたか。女子になった事のなかおはんには、分からん!」

 うーん。見ててなんか…気まずい。

 

 糸ちゃんを演ずる渡邉このみさんの演技は上手く、嫌味のないものだし、溌剌としていて、ああこの子が男の子に混ざりたいの分かるなぁ~、と素直な感情が湧くんですよね。だがしかし、です。

 そもそも、西郷さんは男尊女卑解消のために何かしたとか、ないと思うよ?

 西郷糸さん関しても、特に女性の地位向上に熱心だったエピソードとか、聞かないよ?

 なのに、周り中の全員が男子、成人男性の武士(帯刀してる)もいる中で、たったひとり女子として立つ糸に「ないごて女子は郷中に入ったらいかんとですか」ときっぱりはっきりした口調で主張させるのは、いったいなぜ…? どうしてわざわざそんな問題提起をここで?それってあり得ますかね(時代背景と地域的に。)?

 まさかとは思いますけど、西郷さんを現代人の目から見てもスーパーヒーローに描くために、未来人視点で人物像を補正する目的のエピソードじゃないですよね…?

 この場面、一瞬の気まずい沈黙の後、すぐにおしのびの兄斉彬を伴った島津久光が乗馬で到着し、ザ・渡辺謙劇場再び、という流れになったため、深くは考え込まず気持ちの切り替えができたのですが、正直、胸にザラッとしたものが残りました。

 

小吉、ジェンダー体験のため女装する

 しかし小吉はそのことを続けて考えます。「弱いものの身になれ」という斉彬様の言葉と共に。次の日(? 多分次の日…)、彼はなんと女子に変装して街中を歩くのでした。そして、荷車を引く人足に「女子は道の端を歩かんか!」と突き飛ばされる体験をします。

 えーとね、ここも…。女装というか、小吉の着ていたものは、どうみても長襦袢…。しかも真っ赤な。(そもそもあれは誰のもの?もしかして疱瘡除けに先祖代々1枚常備?)その上に手ぬぐいででしょうか、頭を覆っています。そんな、まるでお女郎のような姿で昼日中に街を歩いていたら「女子は道の端を歩け」どころではないような気がするのですが…。それこそ誰か知り人に見つかったら恥ずかしすぎて切腹案件なのでは、と思ったりもしました。とはいえ、幕末薩摩の歴史事情に詳しくないので断言は控えます。とにかく、このあたりも非常に違和感をおぼえたことは確かです。モヤモヤ。

 ただ、この場面で出ていた女中さん役の方の薩摩弁がネイティブ、とtwitter上で話題になったほど流暢だったり、息子を諫める父:吉兵衛役の風間杜夫さんの演技が軽妙だったので、ここも、気になりながらも、気持ちを次に進められる演出ではありましたけれども。

 

おんな城主 直虎」の後だから敏感になっているのか?

 上記で述べた2点に、私が何をどう引っかかっているかというと、つまり。

 なんとなく、女性をあまり大切にしていない表現だなあ、と感じるのですよね。

 糸ちゃんの件は、西郷糸さん、というかつて実在した人物へのリスペクトは?という疑問でしょうか。この部分が実在の女性を軽視しているような気がしてなりません。物語の中、しかも1話の都合でそんな思い切ったキャラ変をしていいの?、という。

 それも夫であった西郷隆盛さんという有名人物のために、無名の女性が軽く扱われているような気がどうしてもしてしまうのです。とはいえ、まだ第1話時点なので、これがわたしの杞憂で、最終話まで見終わった後は、そんなことをすっかり忘れてしまえていたら良いのですけれども。

 長襦袢の方は、見た目のわかりやすさのために、ちょっと品を落とした演出だったなあと思いますし、もう少しやり方はなかったのかと。

  昨年の大河ドラマおんな城主 直虎」では色々な立場の女性が敬意を持って描かれ、とても楽しく1年視聴出来たために、今年は私の感覚が敏感になっているのかもしれません。去年の「直虎」と一昨年の「真田丸」が非常に素晴らしいリレー関係だったので、その後だから、残念だと思う気持ちが多少強いのかとも。

 個人的なこうした理由のせいで気になるのであればそれに越したことはないな、考えすぎだといいなと願ってますが、こればかりは先を見続けないとわかりませんね。

 

 ともあれ、女性作家原作・女性脚本家シナリオの本作ですので、女性にリスペクトを感じられる作品であって欲しいなあと、女性の私は切実に思っています。残念な女性観を提示され、女性の敵は女性だ、みたいな気持ちになるのは辛いです。

 

 既視感があちこちに

 昨年一昨年の作品は好評だったけどやっぱりちょっと異色で、今年の「西郷どん」は大河ドラマの王道に戻った感があるね、とtwitter上でチラホラ見かけたような気がします。何が王道かについては、正直私はそれを決める手がかりを持たないのですが、既視感はそこここにあるよなぁーと感じました。

 

 例えば。

 今回、少年の主人公は未来の主君:島津斉彬と偶然、運命の出会いを果たします。同2013年の大河ドラマ「八重の桜」でも、同じく初回に主人公:山本八重が藩主である松平容保と(狩りの最中に事故で)出会い、感銘を受けました。この幼少期の出会いが八重の人生に影響を与えたという設定でした。 同作品はちょうど同じ幕末時期を會津藩側から描いた作品なので「ああ似ているなぁ」とつい類似を想起してしまいますね。

 また、最後に放映された予告によれば、この作品では岩山糸が成長後、西郷吉之助(隆盛)に淡い思いを寄せるようです。そしてガイドブックをチラ見したところでは、大久保正助(利通)が岩山糸に淡い恋心をと…。しかし糸さんは最初、全く別の男性に嫁ぎます。女1・男2のなんとなくな三角関係。これは、昨年の「おんな城主 直虎」の第一クールを思い出させる設定に感じられます。

 それから、河原で女装を父に咎められ、父子共々帰路につく小吉を(またも)橋の上から見ていた糸ちゃんが「おもしてか(面白い)人じゃ、小吉さぁは」と呟く場面があります。これも、大河ドラマではないのですが、がっつり既視感。

 2015年のTBS日曜劇場「天皇の料理番」に、「西郷どん」で成長後の岩山糸を演じる黒木華さんが、主人公秋山篤蔵の妻:俊子役で出演しました。この作品には「西郷どん」主人公役の鈴木亮平さんも篤蔵の兄役で出演しています。なので、つい、連想してしまうのですが…。主人公の篤蔵は当初、周囲から呆れられるような「ダメ男」として登場します。でもその篤蔵を俊子は、(かいつまんで言えば)「おもしろい人」と、ほのかにですが、好意的に見るんですよね(年月を経て、最後には深い夫婦愛で2人は結ばれます。ですが最初は紆余曲折大いにあり、の設定でした)。

 「西郷どん」予告でも「おもしてか人じゃ、吉之助さぁは」と大人になった糸さん(黒木華さん)が呟く場面が映りましたので、なんとなく重ねてしまうのです。この作品も明治末期~大正~昭和前期を描いた歴史ドラマで、俊子さんも髷を結っていましたから、ビジュアル的にも重なるところがあり。

 

 そしてまた予告&ガイドブックベースの話になってしまいますが、岩山糸さんは沢村一樹さん演じる赤山靭負の家に奉公するとか。赤山靭負は吉之助たちの先生格、という位置づけなのでそうすると、糸さんのポジションが、2015年「花燃ゆ」の杉文? え、え?え??という気持ちもあります。これが一番嫌な予感なので、当たらないで欲しいです、切実に。

 

 という感じに、全て偶然かもしれませんがこれらが積み重なった結果、私の中で「うーん、つぎはぎ感。これ大丈夫?」という気持ちが起こってしまっているのは否めません。

 

今年は過去2年より脚本執筆のハードルは高いかもしれない

 と、不安に感じる点を書き連ねてきましたが、ただひとつ脚本家さんに関して思うことは、戦国物を書くより大変なのじゃないか、という予想をしています。薩摩弁もですが、他の地方の登場人物もご当地言葉でやるでしょうから、締切的にはその翻訳作業を見込み、厳しいはず。

 それと「西郷どん」は原作物ですが、2017年に連載が終わったばかりの、新しい作品です。オリジナル脚本の場合、およそ2年前から打ち合わせ・執筆スタート的な報道がありましたが、中園ミホさんの場合はおそらく、その点で若干スタートが遅くなっているのではと思います。スタートが遅く締切が早め、ということで、昨年・一昨年よりハードルの高い条件で執筆されているかもしれません。そのあたりが裏目に出ないといいですね。

 

面白い歴史ドラマになりますように

 とにかくまだ初回終了時。全てに断を下すのは早計に決まっています。どの点についても、もう少し推移を見守っていこうと思います。

 とりあえず、主人公の人物像は分かりやすく、芯があり、好感度高く描かれていたし、役者さんも良かった。

 後は枠組み。歴史や時代背景、周辺人物の動きなど、幕末は特に複雑なので、そのあたりの辻褄が、視聴者が簡単に「あ、これブレてる」と思ってしまうような組み立てだと、必然的に物語も破綻してきてしまうでしょう。ここがカッチリ決まれば、歴史を扱う大河ドラマは面白いのです。だって歴史自体が面白い(興味深い)コンテンツだからです。今年も、願わくば、そちらに向かっていきますように。